文=小島ともみ
人間の心の奥底に潜む暗い欲望が、平凡な日常の隙間からじわりと顔をのぞかせる瞬間。アルトゥーロ・リプステイン監督の『深紅の愛』は、1940年代のアメリカで実際に起きた「ロンリーハーツ・キラー事件」を下敷きに、人の業の深さが招く破滅の過程を扇情的に描き出す。ある男女が結婚詐欺を繰り返しながら20名以上を殺めたこの事件は、レナード・カッスル監督『ハネムーン・キラーズ』(1970)、ファブリス・ドゥ・ベルツ監督『地獄愛』(2014)でも題材にされている。そのたびにカップルの異常な暴走ぶりがセンセーションを呼び、それぞれの作品にカルト映画という称号を与えてきた。リプステインの視点はこの2作とは一線を画し、二人の日常を焦点に、小さな欲望が愛憎を育む構造を鋭く照らし出す。
男と女が知り合うきっかけは、交際相手を募る文通クラブでのやりとりだ。男は虚像で固めたケチな結婚詐欺師。女性に近づく理由はただ一つ、金を巻き上げるためだ。女は不器用な看護師のシングルマザー。愛される経験が乏しく、子供に愛情を注げない自分に不安を抱えている。相手に自分の求めるものがないと分かっていながら、その逢瀬は一種の安らぎを与え、二人の関係は深みにはまってゆく。そして心の奥底に潜む抑えきれない衝動を徐々に解き放ち、二人を取り返しのつかない道へと誘うのである。
この過程でリプステインが描き出すのは、犯罪そのもののむごたらしさではなく、共依存で孤立を深めた二人のほころびが増幅され、ある閾値を越えた時の恐ろしさだ。初めは行き当たりばったりで詐欺に手を染めていた二人だったが、やがてルーチンワークのように死体を解体し処分するまでに至る過程を、リプステインは二つの哀れな魂の悲鳴として見つめ続ける。その視線は冷徹ながら、突きつけてくるものは土砂降りの湿り気、画面越しに伝わってくるむせ返る匂いを伴い、胸焼けがするほど濃厚だ。
二人はついに幼子をも手に掛ける。涙にくれながら手に力を込め続ける姿は、確かに異常に写る。しかし、犯罪心理学者の上野正彦が著書でたびたび指摘しているように、その裏にある臆病さと理性がつくりだす「極めて普通の心理状態」を見せつけられることのほうが、むしろ背筋を寒くする。「バレたら終わり、別れが来る」という狂った自己保身が、内なる攻撃性を冷静に暴力へと変えていくさまは、誰もが心の底に抱えるどす黒い部分への意地悪な囁きだ。
愛と暴力が複雑に絡み合う人間の本性を炙り出す鏡、『深紅の愛』。私たちが見ているのは、彼らの異常性ではなく、今の世にも通じる冷淡な暴力性と愛の脆さそのものだ。日常は薄い皮膜でしかなく、愛と破滅は情動という快楽を伴ってそこかしこに口を開けて待ち構えているかもしれない。私たちは、この歪んだ愛が歩んだ道からどれほど遠くいるのだろう。
作品情報
原題:Deep Crimson (Director’s Cut)[Profundo carmesí (Versión del director)]
監督:アルトゥーロ・リプステイン
キャスト:レジーナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、シャーリン、ジョバーニ・フロリド、フェルナンド・ソレール・パラビシーニ
137分/カラー/スペイン語/日本語、英語字幕/1996年/メキシコ
妄想パンフ
『深紅の愛 DEEP CRIMSON』(2000)公開時に制作されている。ディレクターズ版に作るのなら、真っ赤な光沢の装丁に雨垂れのような加工を。実際の事件を新聞記事風に紹介。二人の逃避行のロードマップを。ニコラスが手紙にしたためた歯の浮くような美辞麗句集と共にロマンス詐欺に警鐘を鳴らす記事をぜひ。