文=小島ともみ
歴史を感じさせる堅牢な名門寄学校。その一室でカメラは狂った円環を描き、360度の縦回転ショットで物語が始まる。この回転は、続く心理戦の不穏な前奏曲だ。トルコの新鋭監督ジェイラン・オズギュン・オズチェリキによる二人の女の対話劇は、学校という檻の中で権力と支配欲がぶつかり合うさまを、冷徹な解剖台の上に晒し出していく。
物語の発端は、卒業を目前に控えた娘オズギュルの退学処分を巡る母親ヤスミンと進学カウンセラー、イペックの対立である。カメラは繰り返し意図的に母親ヤスミンの耳元で揺れるシャネルのイヤリングを捉える。それは彼女が所属する階級の象徴であると同時に、その内面に潜む虚無を隠すための防具でもある。「独身のあなたに母親の何がわかる?」――カウンセラーを見下す挑発的な言葉は、重ねるほどに古びた因習の鎖を誇示する痛々しい自己演出として響く。ヤスミンは全身で特権を振りかざしつつも、娘への無関心と支配欲に蝕まれている。対峙する進学カウンセラーのイペックは、控えめで慎重な物腰ながら、倫理を武器に毅然とした態度を崩さない。彼女の理想主義は、これまで生徒を守る盾であり、彼女を支えるプライドでもあった。しかし、ヤスミンの言葉の毒が、少しずつその盾を削り取っていく。今や無防備となったイペックは抑圧された怒りをとどめきれず、遂には平手打ちという暴力で応える。その音は、理性の仮面が粉々に砕け散る瞬間を告げる警鐘のようだ。
この丁々発止に輪をかけて緊張感を与えるのが、二度訪れる「間」だ。イペックが生徒の休憩時間を理由に提案する部屋の移動、ヤスミンが訴える突然の腹痛――どちらも一見、理にかなったものに見えるが、実は両者が次の一手を練るための時間稼ぎに他ならない。この「間」は、表面的な対話の裏で新たな罠が仕掛けられる予兆であり、観客に不穏さを植え付け、破滅への序章として巧妙に機能している。
二人の対立の背後で暗示される娘オズギュルの存在は、物語をさらに深く揺さぶる。退学の原因となった「動物虐待動画」は、母親の歪んだ支配欲の産物とも、娘が愛情を試そうとした結果とも受け取れる。また、日記に記された「10秒のキス」の記述は、彼女がカウンセラーに抱いていた感情と、二人が共謀していた可能性を示唆し、善悪の境界を曖昧にしていく。そして物語の終盤でオズギュルが姿を現す瞬間、彼女の装いが、二人の言葉から想像された「被害者」のイメージを鮮やかに覆す。パンキッシュな服に身を包んだ姿は、名が表すとおり「özgür 」そのもの。母と教師という旧世代の対立を飛び越え、新たな支配の可能性を予感させる。
本作が東京国際映画祭で新設された「ウィメンズ・エンパワーメント」部門で上映されるのはなんとも痛快な皮肉だ。母親がカウンセラーに放つ「あなたフェミニストでしょ?」という言葉は、SNSで生まれる安易なレッテル貼りを連想させ、女性解放運動の歪みを鋭く抉る。特権階級の女性がフェミニズムを侮蔑する構図は、解放を目指す運動そのものが新たな分断を生みかねない現実を浮き彫りにしているかのようだ。74分という限られた時間の中で、ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ監督は、現代社会が抱える欲望と支配の構造を冷徹に解剖してみせた。そのメスは、ジェンダーや階級といった表層を切り裂き、人間の本質的な狂気を暴き出す。我々は、この生々しい断面図の中に、自らの姿を見出さずにはいられない。
作品情報
原題:In Ten Seconds[On Saniye]
監督:ジェイラン・オズギュン・オズチェリキ[Ceylan Özgün Özçelik]
キャスト:ベルギュザル・コレル/ビゲ・オナル他
74分/カラー/トルコ語 日本語/英語字幕/2024年/トルコ
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妄想パンフ
B5ヨコサイズ。表紙は映画のエンディングに出てくる反転する校舎をあしらい、対立そのものが虚構に過ぎないことを表す。密室で制度(学校)、特権(母親)、理想(カウンセラー)という三つの力が激突する内容を、三角のモチーフを至るところに入れて表現。