文=小島ともみ
父の号令が鳴る。ストレッチ、反復、怒声。少女マリアは地元の少年サッカーチームのキーパーだ。父の悲願であるプロ入りを目指し、日々遊ぶ間を惜しんで父と二人三脚、練習を重ねている。舞台は、山火事で多数の人命が奪われたばかりのポルトガル内陸の“忘れられた”村。狭いコミュニティでの近すぎる関係が重い環境下、父の支配は“将来のため”という名目で正当化される。そんな均衡を乱すのが、長らく家を出ていた兄ブルーノの突然の帰還だ。ファッション業界を志し、カナダで暮らす彼は、男性との結婚を控えている。家父長制の“正しさ”から外れた兄の存在は、家のなかに溜め込まれてきた亀裂を、目に見える裂け目に変えていく。本作は、この兄の帰還をきっかけに、「父の期待に応える娘」が「自分の意思で将来を選ぶ若い女」へと変わる、ほんの数日の出来事を描いている。
コミュニティの外からの予期せぬ来訪者であるがゆえに、兄ブルーノは軽薄でもあり無責任でもある—―母の死を巡る罵り合いの末に家を去り、唐突な帰郷の主な目的は金の無心だった――が、同時に彼だけがマリアの現在に「遊ぶ時間」「同級生との交流」「着飾る楽しさ」を差し出す。父が禁止してきたそれらの“寄り道”は、マリアの身体を「他者に従属する訓練器具」から、「自分で速度も角度も決められる身体」へと反転させる回路だ。兄が塗るアイラインは、父の祈壇(聖母像)に代わる、マリアの顔の“署名”となる。
この内面の変化を象徴するのが、視線の回復である。川遊びの同級生を車の中からこっそり覗く序盤のマリアは、他人の楽しさを“借景”として取り込むしかない。だがパーティーで心ない言葉を浴びたマリアは、相手を見据えて笑い飛ばしてみせる。帰宅後に父と兄が起こした悶着を見つめる目も、もはや受け身ではない。翌朝、支度を調えて静かに待つマリアの視線に、たじろぐのは父のほうである。さらには終盤、観客の視線を“監督=父”の統御から取り戻す宣言として、劇的な瞬間を導いていく。
映画の背景に反復して現れる焼け跡という地表の記憶は、家族が言葉にできず沈めてきた喪失(母の死、兄の離脱、父の脆さ)を可視化する。監督マリオ・パトロシニオはドキュメンタリー出身らしく、粗野な土の質感や村人の声をすくい取りながら、現実の肌理の上にかすかな夢見心地――たとえば祖母の家で老女たちが輪になって歌う場面の、時間が止まる感覚――を重ねる。この「写実と微睡の併置」が、作品の主題(喪失と再生/支配と自立)を過剰に説明せず、感覚として映画全体を包み込んでいるかのようだ。
人物造形は、単純な善悪の二分を避けている。父は抑圧者であると同時に、聖像に祈り、娘の才能を本気で信じる男でもある。期待のかけ方が不器用で、愛が支配に転化してしまう古い思考の象徴だ。ブルーノはマリアを解き放つ触媒でありながら、利己的な面を隠さない。彼の存在は“解放=無垢”ではなく、“矛盾を抱えた自由”の等身大を示している。だからこそ、マリアの選択は誰かの犠牲の上に成り立つものでも、全面的な勝利を得るものでもない。父の怒声も、兄の軽さも、母の不在も、そのまま背負って前に出る。キーパーというポジションの逆説――「守る」ことを本分とする役割で、「自分の未来を攻め取る」――がここで立ちあらわれてくる。
演出で特筆したいのは、身体の置き方だ。練習の微細な反復、身をすくめて川面を見つめる瞬間、パーティー前に兄の手で仕上がる頬骨、そしてゴール前の静止。言葉の少ない代わりに、マリアの内面を雄弁に物語る。さらに撮影監督ペドロ・J・マルケスのカメラが、村の冷気と肌の温度差をきっぱりと分け、山の静けさに人声と火の記憶を交ぜつつ、マリアの内側の軋みを聴かせる音響設計も効いている。
主演マリアナ・カルドーゾは長編初主演。飾り気のない面差しで、従順と反発のあいだを行き来する“揺れ”を刻み、最終カットの薄い微笑みに至るまで、外向きのパフォーマンスより“内側の決意”の温度差で見せ切る。父ナチョ役ミゲル・ボルジェスの硬さと、兄ブルーノ役ミゲル・ヌネスの柔らかい奔放さが、彼女の輪郭をくっきりさせる。
ラスト、彼女は混じり気のないみずからの意志でフィールドに向かう。ゴール前で、カメラを――つまり私たち観客を――正面から見返すとき、マリアは初めて「見られる客体」から「見る主体」へと反転する。彼女自身の顔で立つその姿は、静かだが揺るがない。自分の人生を引き受けるという、ささやかだが決定的な勝利(ヴィトリア)の体現である。

作品情報
原題:Maria Vitoria[Maria Vitória]
監督/脚本:マリオ・パトロシニオ
プロデューサー:アナ・ピニャオン・モウラ
編集:クラウディア・シルヴェストレ
撮影:ペドロ・J・マルケス
美術:ケイティ・バイロン
衣装:イタマール・ゼショヴァル
音響:トメ・パルメイリン
音響編集:ペドロ・ゴイス
作曲:エドガル・ヴァレンチ
作曲:ベルナルド・ダッダリオ
キャスト:マリアナ・カルドーゾ、ミゲル・ボルジェス、ミゲル・ヌネス
公式サイト
114分/カラー/ポルトガル語/英語・日本語字幕/2025年/ポルトガル
妄想パンフ
A4ヨコ。表紙はこちらを見据えるマリアの目元をアップで配置。中表紙はトレペ仕掛けで“ネット”を重ね、めくるとネットが外れてピッチが開ける構成。守る役割で攻め取るというゴールキーパーの逆説的な意味合いに着目したコラムを。










