文=屋代忠重
日本には長崎ハウステンボスや伊勢志摩スペイン村、東京ドイツ村など、国内にいながら異国情緒が楽しめるテーマパークは多い。日光江戸村や京都太秦映画村など、時代劇に特化したテーマパーク、オリエンタルなランドが運営する夢の国、最近ではジャングリア沖縄…日本にはテーマパークという名の疑似体験施設があちこちに満ち溢れている。しかしアメリカには我々の想像を上回る疑似体験施設が存在する。それが本作『アトロピア』である。
9.11アメリカ同時多発テロをきっかけに、イラク侵攻に備えてアメリカ軍は「アトロピア」という架空の国家をカリフォルニア州に建設。そこでは現地さながらの街並みがあり、細かい設定のもとに配役された住人も中東系を集めリアリティをもたせている。そうして作り出された疑似イラクで兵士たちは訓練を受け、戦地へと派遣される。主人公である俳優志望のフェイルーズは、住人を演じながらアトロピアで暮らし、ここをハリウッドへの足掛かりにしようと考えている。アトロピアにハリウッドの大物俳優がやってくると知って、売り込みに必死になる彼女の執念は凄まじく、いかにアトロピアでのキャリアに賭けているかうかがえる。しかし、そこに反乱分子役として新たに配属されたイラク帰りの軍人アブ・ダイスとの出会いが、彼女の信念を揺るがし始める…。
虚構の街でおこなわれる戦争。訓練とはいえ隊内の雰囲気は遠足気分のように弛緩している。サバイバルゲーム感覚の兵士たちは戦争の現実性をまるで認識しておらず、あたかもキッザニアにきた子供たちのようでさえある。兵士のみならず役作りに熱心な住人たち、戦争をリアルに見せるための特殊効果を担当するスタッフ、兵士に随行する素人同然のメディア、そしてアトロピアの責任者たちでさえ、誰ひとり戦争を現実的にとらえていない。この街の誰もが現実の戦争から目を背け、偽物の戦争を自身のキャリアに利用しようとする姿は滑稽極まりない。軍産複合体の見えざる力がもたらした「現実の戦争を第四境界の向こうに押し込め、虚構の上に成り立つ非現実な戦争に麻痺した感覚」は、いま世界中に蔓延している。「なぜイラクへ行くのか?」作中で何度か問いかけられるフレーズだが、誰もまともに答えることが出来ない。最初から答えなどない、知る必要もないからだ。しかし、いかに空虚な世界だろうが、そこで暮らすフェイルーズたちは紛れもない現実だ。
そしてまさに虚構の街で暮らすフェイルーズという女性のリアルこそが、監督のヘイリー・ゲイツが本作で描きたかったことなのだろう。アトロピアでハリウッドでの成功を夢みるフェイルーズ。自分のアイデンティティをアピールするものは、一枚のDVDに記録されたオーディションテープだけ。そんな彼女がダイスとの関係を通して、与えられた役の設定とリアルの狭間で悩みつつ、自身の安穏と幸福を見つめ直す。これはそういう物語なのである。人為的につくられたウソだらけの生活において、ダイスとの交わりこそが、フェイルーズが実感できるリアルな人間関係なのだ。彼女たち街の人々が真に遭遇する脅威はイラクでもテロ組織でもなく、触れただけで処罰対象になるサバクガメなのである。このアトロピアの存在が、「戦火の中で燃え上がる男女の物語」というありがちな設定にひねりを加え、より奇妙で興味深いものにしている。そしてこれらの虚実が第四境界を互いに侵食しあう世界で、住人と反乱分子という配役上の関係から、徐々に男女のリアルな関係性へ変化していくグラデーションが本作の妙味である。
本作は元々ヘイリーがイタリアの女性向けファッションブランドMiu Miuが主宰する女性監督による短編映画シリーズ「Women’s Tales」の一環として製作された『Shako Mako』(19)をもとに、新たに長編として撮ったものだ。主演のアリア・ショウカットは『Shako Mako』から続投。そしてこの短編を観たカラム・ターナーが出演を承諾。同じく共演のクロエ・セヴィニーは「Women’s Tales」に監督としても参加している。長編化にあたってプロデューサーとしてルカ・グァダニーノも名を連ねたところから、本作が大きな期待をもって製作されたであろうことがうかがえる。そしてその期待にサンダンス映画祭グランプリ(審査員大賞・ドラマ部門)獲得という栄誉で応えてみせた。同じ女性監督として、徹底した取材でリアルな戦争を描くキャスリン・ビグローとは違い、風刺的に戦争に巻き込まれる人々を描いてみせたヘイリー・ゲイツはこれから目の離せない監督になっていくだろう。
ちなみにこのアトロピアという訓練施設は実際に存在しており、現在は西側寄りの独裁国家という設定で運営されている。「神は戦争を用いてアメリカ人に地理を教える」映画の冒頭で引用されるアンブローズ・ビアスの名言だ。映画評論家の町山智浩氏が著書で「パスポートを持っているアメリカ人は国民の2割にすぎない。他の8割は外国に関心がない。彼らが外国の土地を踏むのは、銃を持って攻め込むときだけだ」と言及するほどにアメリカ人の外国に対する関心は戦争以外にないのかもしれない(私たち日本人だって、イラクがどこにあるか分からない人が多いのだから決して他人事ではない)。そんな世界にいながらも、フェイルーズが突き進んでいく姿は美しい。願わくは彼女に幸多からんことを。

作品情報
原題:Atropia
監督/脚本:ヘイリー・ゲイツ
キャスト:アリア・ショウカット/カラム・ターナー/クロエ・セヴィニー
103分/カラー/英語/英語、日本語字幕/2025年/アメリカ
妄想パンフ
A4ヨコ。実際のアトロピアの国旗(ちゃんと設定がある!)を表紙に、地球の歩き方みたいな観光ガイド的な内容で。










