文=屋代忠重
本作は2012年にオランダのクンストハル美術館で実際に起きた絵画窃盗事件を題材にしており、西欧と東欧のいまだ埋まらない経済格差を背景に、追い詰められていくルーマニアの出稼ぎ労働者たちを描く。主演は『あのこと』のアナマリア・ヴァルトロメイ、『母の聖戦』のテオドラ・アナ・ミハイの長編2作目である。そして『母の聖戦』に引き続きダルデンヌ兄弟がプロデューサーに名を連ねるダルデン兄弟プロデュースということで、雰囲気を察することができるし、その期待を裏切らない作品になっている。
ルーマニアはチャウシェスク政治の終焉が訪れた1989年以降、増加した人口に食糧供給が追いつかず、貧困が蔓延し続けた。2007年にはEUに参加し経済が上向きかけるが、直後の2008年、世界中の経済を大混乱に陥れたリーマンショックが深刻な影響を及ぼす。在ルーマニア 日本大使館によると、2009年の経済成長率は-6.6%。本作で描かれた事件が起きた2012年も0.6%という状況である。革命後はより良い賃金と生活を求め、外国への出稼ぎによる労働力の流出が社会問題となっており、本作の主人公であるナタリアとジネルの夫婦もそういった事情からオランダで働いている。しかし黒海沿岸のルーマニアと北海に面するオランダは、彼らの出稼ぎ先としてはいささか距離がある。そもそも出稼ぎ先としてオランダはそこまで人気があるわけではないし、2012年当時のオランダも決して経済が好調と言う訳ではなかった。それだけ彼らの選択肢がなくなっているということでもある。たとえ時給10.05€でも働かざるを得ないが、借金が膨らむ一方でルーマニアに残した父母の生活も仕送り、年金だけでは到底足りず、インフラは全て止められ明日の生活もままならない。二人の生活は機能不全に陥っており、ジネルはやがて一緒にオランダに渡った彼らの悪友、イツァの違法な仕事に協力せざるを得なくなる。
イツァたちが目をつけた美術館では植民地主義をテーマにした展覧会が開かれており、警備体制も杜撰だったことから、わずか3分足らずで合計7点の絵画を盗み出すことに成功。しかし売り捌こうにも全て登録美術品のため、買い手がなかなか見つからない。逮捕の危険を感じ取った彼らはルーマニアへ逃走、しばらく身を隠すことにした。そもそも彼らは絵画に疎い。盗み出す作品も無差別で、運搬する袋に収まるか否かで選んでいる。知ってる画家もピカソがせいぜいだし、どれがピカソの作品かもおそらくわかっていない。自動車やオートバイのような、盗めば高く売れる金の卵程度にしか思っていない。盗んだ絵画の取扱いもいい加減で、これが誰の作品かではなく値段はいくらになるのか、金額の単位はユーロなのかレイなのかにしか興味がない。そもそも不用意に鑑定士に鑑定を依頼したせいで、そこからあっという間に足がついたことにも気付いていない。一方で盗まれたオランダ側は、盗まれた絵画の状態にしか関心がない。ルーマニアの刑事が美術館の代理人に、犯人たちの動向や今後の捜査方針を説明しても、彼らは絵画がいかに価値のあるもので、本当に戻ってくるのかという返事ばかりで全く噛み合っていない。植民地支配をテーマにした展覧会を企画しておきながら、貧困層が犯した犯罪に向き合うこともせず、東西ヨーロッパの貧困格差を透明化しようとしているようにも映る。その時の刑事の台詞がこの両者のギャップを象徴している。
「あなた方にとってはルーマニア人の“彼ら”でしょうが、“彼ら”にも色々ありましてね」
果たして捜査網は次第に彼らを追い詰めていく。買い手がつかずイコンを売ってしまうジネル。遂に信仰まで手放すことなる姿は、もともと彼が穏やかで優しい人柄なのを見ているだけに、つい同情してしまう。しかし、オランダの裕福な老人の家政婦として働き、生活が好転し始めるナタリアの視点が、追い詰められ人が変わっていくジネルを冷徹に捉える。この善悪のボーダーライン上を綱渡りで生きる“彼ら”は決して特殊な人々ではなく、自分が生きているこの社会にも存在するし、常に誰もがなり得る可能性をもっている。タイトルの『トラフィック』は量的な流れを意味する英単語であり、原題『Reostat』はウズベスク語で加減抵抗器と訳され、電流の流れを調整する装置を意味する。ヒト、モノ、カネ…ヨーロッパを流れるあらゆる資源が、本当に適切なのか問われている。
ちなみに盗難にあった絵画が戻ってくる例は少なく、実際は犯人によってどこかに隠されるか廃棄されてしまうのだそうだ。今作でモデルになった事件で盗難にあった絵画も、一点も戻ってきておらず、映画同様の運命を辿ったと思われる。そしてオランダの裁判所は主犯格の男二人にそれぞれ禁錮6年8ヶ月を言い渡した。
作品情報
原題:Traffic[Reostat]
監督:テオドラ・アナ・ミハイ
キャスト:アナマリア・ヴァルトロメイ/イオヌツ・ニクラエ/ラレシュ・アンドリッチ/トーマス・リケワート/アリス・ベアトリス・ムニョス・ミハイ
119分/カラー/ルーマニア語、オランダ語、英語 日本語、英語字幕/2024年/ルーマニア、ベルギー、オランダ
妄想パンフ
B5タテ 展覧会のパンフレットみたいな装丁。事件で展示された絵画紹介や、東西格差の解説など、映画の背景がわかるような内容。