文=屋代忠重
急速な高齢化がすすむイラン。70歳を迎えるマヒンは夫に先立たれ、娘もヨーロッパへ移住し、今はひとりで静かに暮らす毎日。かつては毎週のように集まっていた友人たちも、次第にその頻度が減り、もっぱらの話題の中心はそれぞれの不健康自慢。これをきっかけに積極的に外に出て社会と繋がろうと彼女は思い立つ。
マヒンは1978年の革命前、イランが自由だった時代を知っている。そして自宅やタクシーの車内のような密室を彼女の内心のメタファーとし、かつての自由を懐かしみ、現在の政府に批判的な感情を吐露させている。街を散策する道すがら、若い女性がヒジャブの着用方法をめぐって道徳警察に連行されそうになる場面に遭遇する。自身が拘束されるリスクも厭わず、身を挺して女性をかばうマヒン。はれて連行を免れ、ボーイフレンドとのデートに間に合うとマヒンに礼をいう女性に、「抵抗することが大事なの」と話す。おそらくこれは2022年9月に女学生マフサ・アミニが、彼女のヒジャブの不適切な着用方法を取り締りまった道徳警察によって暴行・死亡した事件をきっかけに、イラン全土でそれに抗議する大規模な反政府デモが巻き起こったことを指している。無事にボーイフレンドと合流できた彼女を、少し羨ましそうに見送るマヒンだったが、そんな彼女にも思わぬ出会いが訪れる。入ったレストランでみかけたファラマルズという男性にマヒンはロマンスを感じる。彼は妻と離婚してから孤独な毎日を送っており、奇しくも独身で同年代の二人はあっという間に意気投合。彼女の積極的なアプローチも功を奏し、なんと彼を今晩自宅に招くことに成功したのだ。
先に帰宅したマヒンは、彼の到着前に急いでヒジャブを外し、メイクやドレスアップにかかる。彼を家に招き入れ、彼女特製のケーキを焼いてる間、密かに隠していたワインで乾杯。流れる音楽にあわせて飲んで歌って踊って、楽しい時間が過ぎていく。壊れて点かなかった中庭の電灯が、ファラマルズの手によって修理され点灯する瞬間は、これまで暗闇に包まれていた二人の青春が再び輝き出した瞬間でもあった。日本では公共の場で飲酒もできるし、音楽に合わせて歌って踊ることもできる。そもそもメイクもおしゃれも外出のときにするものだ。私たちの社会とはあべこべの、それら全てを家の中で楽しむしかない抑圧された社会。革命前を知る二人だからこそ、言葉にせずとも、あのときの楽しさをお互いに感じあい、惹かれあう。そして気持ちはいよいよ頂点へと登っていくのだが…。終盤で二人におとずれる、出られることのない永遠ともいえる自由のなか、静かにマヒン特製のケーキを口にするファラマルズ。はたして最初の一口はどんな味だったのだろうか。
本作の監督、マリヤム・モガッダムとベタシュ・サナイハの前作『白い牛のバラッド』(‘20)はイラン当局から反体制的な内容と判断され、国内上映の中止、二人は国外への出国禁止処分を受けている。そんな厳しい状況下でも屈することなく、本作をつくり守り抜いた。そしてマヒンの家はそんな二人の意思の象徴でもある。どれだけ政府、指導者、道徳警察らが人々の目や耳や口をふさごうとも、誰もわたしたちの内心の自由に踏み込むことはできないと。映画の大半は会話劇で進み、あらゆる演出が絶妙に絡んでくるので、その分この結末に受ける衝撃は計り知れない。私は当初この結末に対して、正直なぜこれがウィメンズ・エンパワーメント部門にカテゴライズされたのか戸惑った。しかし二人のこの力強い宣言は、女性だけでなくあらゆる社会で抑圧された人々へのまぎれもないエンパワーメントであった。
作品情報
原題:My Favourite Cake[Keyke Mahboobe Man]
監督:マリヤム・モガッダム、ベタシュ・サナイハ
キャスト:リリ・ファルハドプール/エスマイル・メーラビ
97分/カラー/ペルシャ語 日本語、英語字幕/2023年/イラン/フランス/スウェーデン/ドイツ
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妄想パンフ
A5ヨコ マヒンの家族写真や、ファラマルズとのセルフィー。作品に登場する料理のレシピや劇中にかかるオールディーズの解説など、二人が過ごした一夜のロマンスを追体験できるような内容。