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【TIFF6日目レポート1】 自我を捨てた先の安らぎ『チュルリ』

文=竹美

『ジャッリカットゥ 牛の怒り』で、逃げ出した水牛を村の男たちが血相変えて追いかけるだけの話に神話性と滑稽さを滲ませ、ケララ州農村の人口密度の高さまで見せつけたリジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督がまたやってくれた。

逃亡した犯罪者を探しに、警察の身分を隠してケララの山奥のチュルリ村に来た二人の警官が体験する村の男たちの集合意識の洪水。マラヤーラム映画の持ち味である生活描写の積み重ねが変異世界へと我々を連れて行く…

山奥の男どもだからって、もうちょっと文明化されているだろうよ、というこちらの想いをどんどんぶち抜き、親しげに話していたかと思うと突然罵声を浴びせてくる男たちの妙な安定感。何と言うか、自我が無さすぎる!そこがよく出ていて面白かった。登場人物の大半が男性なのが効いている。

途中で聖体拝領のシーンがあるのだが、その時だけは普通の人たちになり切ってしまうあの切り替え方も興味深い。大半の社会において、我々の振る舞いというのはそういうものではないだろうか。自分ってのはちゃんとしてるんだと思い込んでいるバラモンの僧侶がまんまと騙される冒頭の寓話が本作のテーマ。観ている我々も、上映時間の間に少し変異した。最初は「何だこりゃ?」というひいたクスクス笑いだったのが、段々と物語に呑み込まれて、最後の方では皆が声を出して笑い出してしまった。我々の意識なり自我の範囲が容易に変化してしまうことの一つの現れなのだろうと思うとぞっとする。

クライブバーカーの『丘に、町が』『血の本』はしみったれた小さい自分を捨てて別のものに変わってみたときの自我の消滅と悦びを描いていると思う。また日本の古典『竹取物語』のかぐや姫は、月の世界に帰る時地上の記憶を全て失う。本作のラストシーンでは、きみ悪い程機嫌の良い笑顔を浮かべた人物をスローモーションで正面から捉えた後、その人物を横から、とても遠くから捉えていた。自分が別の世界を知り、心を奪われているとき、実は確信なんか無く、その都度の状況や自分の直感に飲み込まれていくだけ。

自分という枠組みを引っ剥がして別のものに変わりたがる積極的な理由とは何だろう。それは、より多くの欲望を満たし、楽しく、あるいは苦痛を減らそうという瞬間瞬間の小さな抵抗なのだと思う。

普段あまり考えたりしない領域のことを考えさせてくれる映画だった。インド・ケララ州の熱帯雨林、南インドの粗野な雰囲気の男たち、奇妙な効果音と光が相まって、どこか変な世界に連れていかれた気持ちになった。

妄想パンフ

森林の奥へ奥へと入っていく程に、今までの自分が別のものに変異していくように、最初のページから後に行くにつれて、色使いやアイコン等が変わっていき、最後のページには森の闇と光で作られた迷路が描かれている。

作品情報

監督:リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ
キャスト:ヴィナイ・フォート、チェンバン・ヴィノード・ジョーズ、ジョジュ・ジョージ
115分/カラー&モノクロ/マラヤーラム語/日本語・英語字幕/2021年/インド

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