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【TIFF4日目レポート3】生への執着と絶望が交錯する『リンボ』

文=小島ともみ

ハイコントラストなモノクロの映像で浮かび上がる背広姿の男と、両手を縛られゴミ山のキャビネットに閉じ込められた女。冒頭でクライマックスの場面をちらりとみせて緊張感をあおっておき、ゼロ地点めがけて物語を高めていく手法はサスペンスやスリラーではお馴染みだが、ソイ・チェン監督の『リンボ』はひと味ちがう。桁外れの絶望感をいやというほど味わわされて立ち返ったとき、第一印象とはまるで違ってみえることに驚かされるだろう。

原作小説では中国南部のある都市とされている舞台を、ソイ・チェン監督は幼少期、父に連れられ歩いたという香港の貧困地区のひとつ、深水埗に置きかえた。劇中何度か出てくる俯瞰の都市図は、整然と美しく立ち並ぶ超高層ビルと建物のあいだをなめらかに縫って走る高速道路というきらびやかで清潔なコンクリート香港と、隅に追いやられ街のごみ捨て場と化したスラム香港を映しだす。同じ一枚画のなかにおさまるとますます、両地区はたがいに拒絶し合い、混じり合うことを完璧に拒んでいるようにみえる。

そのスラム香港で女の左手首だけが発見される事件が続けて起こり、叩き上げで荒っぽいベテラン刑事チャムと警察学校を首席で卒業したエリート新人のウィルがコンビで捜査にあたる。刑事ものではよくある組み合わせだが、ここにチャムと過去に何かあったらしい元窃盗犯の女ウォンが絡んできて暴力と悲劇に拍車がかかっていく。

色調が統一された街並みのヨーロッパとは違い、アジアの街は色にあふれている。同じアジアでも都市ごとに色合いは異なり、よく似た景色でも色遣いで「これは日本だ」とか「中国だろう」となんとなく察せられてしまう。『リンボ』に出てくるモノクロームの都市は色と一緒に個性を奪われている。個性を消したがゆえに、あの国にもこの国にも当てはまる、他人事ではない風景として立ち現れる。未来のようでもあるし、今このときのようでもある。ひとつ確かなのは、ここでは何が起ころうとも誰も何の関心も示さないことだ。「私たちはあんたたちほど狂っていない。私たちはゴミだ。だから何?私たちを分かってくれるのはあいつだけ」。刑事の尋問に道徳的な善などないのを麻薬中毒者たちは知っている。

犯人を追ってチャムとウィル、そしてウォンが潜り込むスラム街の奥は、見捨てられた人々が彷徨し、ありとあらゆる種類のゴミと朽ち果てた残骸が幾層にも重なるディストピアそのものであるが、視覚的には美しさすら感じさせる。恐ろしい場所にするのはチャムの嗅覚である。犯人の遺留品から嗅ぎとった臭いをチャムは刻銘に記憶している。チャムが鼻をうごめかすたび、犯罪の臭いが漂ってくるようで気が気でない。暗がりに目を凝らすとき嗅覚を意識してぞっとしてしまう。「死臭?」と尋ねるウィルにチャムは呆れ笑いを返す。ウィルにとってはどの悪臭もただの悪臭であり、そこに住まう人や潜む犯人の生と結びつけて考えることなどできないのだろう。

チャムは心に怒りを秘めている。最近「正しく怒ること」が語られる場面にしばしば出くわすが、チャムの怒りは貪欲で、ひとたび火がつけば宿主のエネルギーを吸い取り留まるところを知らずに増幅していく恐ろしいもののように感じてしまう。しかし他方で怒りは彼にとって生きる原動力にもなっている。チャムと対照的なのがウォンだ。ウォンはチャムに負い目があり、チャムに殴られたり、警察の手先になっていることを悪い仲間にばらされて半殺しにされたり、どれほど酷い目に遭わされようともチャムに従う。ウォンにとっては「おまえを許す」という言葉をチャムから引き出すのが生きがいなのである。二人は恐怖と虐待を依存的に共有する主体と客体だが、怒りをぶつけるほどに生気を失うチャムと、否定され、侮蔑され、迫害されてもなお生きようとするウォンの主客関係はしだいに逆転していく。女性に対する(性暴力も含めた)残虐な犯罪行為を描く本作だが、虐げられる女性vs加虐する男性の構図を超えて世界の醜さと残酷さを厳しく問いただしているように感じられた。しかしほんのわずかな希望がみえるだけ、映画はまだ救いがある。

妄想パンフ

コンクリート香港とスラム香港を一枚におさめた空撮のモノクロ俯瞰図を。前編を通してほぼ雨が降っているので、表紙にエンボス加工で雨の縦線を入れたい。日本人が不法移民として描かれている点が興味深く、香港の不法移民問題について、また最後に追跡劇を繰り広げる地区の地図はマスト。妹尾河童さんの「河童が覗いた~」シリーズのようなイラストで載せたい。

作品情報

リンボ Limbo[智齒]
監督:ソイ・チェン[鄭保瑞]
キャスト: ラム・カートン/リウ・ヤースー/メイソン・リー/池内博之/ィトゥワック
予告編はこちらから
118分/モノクロ/広東語、日本語、英語/日本語・英語字幕/2021年/香港

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