映画パンフは宇宙だ!

MAGAZINE

【PATU REVIEW】認知症映画からはみ出す闇

文=竹美

 認知に関わる問題を描く映画では、主演の役者が極めて高い演技の評価を得ることがある。『アリスのままで』のジュリアン・ムーア、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のメリル・ストリープ、もう少し広げれば、『ドライビング Miss デイジー』のジェシカ・タンディもそうだろう。『ビューティフル・マインド』のラッセル・クロウも、現実ではない世界をたびたび目にするという意味で、同じグループに入るかもしれない。
 今回の作品『ファーザー』は、認知症を患うアンソニー役を演じたアンソニー・ホプキンスに二度目のオスカーをもたらした。個人的には認知症を描く映画はホラー映画に限りなく近いと考えているが、本作はその恐ろしさを、誰もが避けようのない未来の姿として投げ出してみせた。
 本作のストーリーは、あって無いようなものかもしれない。厳密に言えば、ストーリーは最後の10分間くらいに集約されている。豪華なアパートに住むアンソニーから見た認知の混乱をぶつ切りにして見せつけるが、その内容にはあまり大きな意味は無いのだと思われる。自分の娘アンの状況も上手く把握できなくなり、アンの妹ルーシーのことを持ち上げたり、アンが夫と共に家を乗っ取ろうとしていると言い出して、新しい介護人を戸惑わせたり、挙句の果てはアンの顔も見間違ってしまう有様である。父アンソニーの不安や過去の記憶がでたらめにつながり、一つの物語を構築してしまうのであろう。周りの者たちにとってぞっとするような、或いは「わざとイライラさせているのか」と(この言葉が何度も出て来る)疑ってしまいたくなる物語を構築することで、自らを守ろうとする本能的な反応なのかもしれない。しかしそれは、健康だったときの「その人」の表層を完全否定し破壊していく過程でもある。
 そのように、健康だった頃に信じることができた「現実」がばらばらに壊れ、自分の震える手で毎日欠片を拾ってはつなぎ直し戸惑う様子は、主観的には当然ホラーである。そして、それを介護する側にとっても悪夢の日々である。『マーガレット・サッチャー』では、「Were you happy?」と亡き夫の幻影に問いかける台詞は、マーガレットが自らのキャリアを否定するかのような言葉であるという意味でショックであったし、作品の評価を下げたのではないかと思うが、人は壊れて変わってしまうことがある。それをあのように優しく見せてくれたのは、今思えば、監督の無意識の配慮ではないかと思う。
 人柄まで変わったように見えるその人を前に「新しいその人に出会うんだ」と考えてみようとしたところで、空しい努力である。「その人」はもう本当に、私の記憶の中にしかいないということを知るのはホラーと同じ。介護する側も別の現実を作り出すかもしれない。本作で割と早めに出て来るベッドルームのシーンは、本当はアンの夢だったのではないか。目の前の異常な行動を悪魔の憑依のせいだと思うことで気が楽になるなら、それも方便だ。
 自分が信じている世界が実は本当ではなかったら…この神経症のような不安を好んで使うスペイン語圏のホラー・スリラー映画は、実は、それを体験する人にとっても、観ている我々にとっても、最後に哀しさ混じりのハッピーエンドを見せてくれた。『アザーズ』や『永遠のこどもたち』は、主人公が自分が真実と思い込んでいた世界観を捨て、もう一つ外の世界から「現実」を俯瞰することになる。そこで初めて新しい自分を獲得し、茫然と立ち尽くしながらも、何かを受け入れている。それは生きている我々には決して訪れない癒しだ。現実にはそんなことは起きない(のだと思う)。死の直前まで、認知症や高次機能障害など、本人の思うままにならない精神と脳と暮らし続けたその魂が、死後も連続していると想像することは、私には耐えられないくらい恐ろしい。
 しかしながら、死後のことは分からないものの、人生の最後の方について我々は備えなければならない。
 アンソニーは、全てを思い出しかけたとき、元気だった頃には自分で無意識に抑えていた感情をうっかり呼び出してしまう。哀しいというかぞっとした。泣きじゃくり、脆くて惨めで弱い人生最後の方の姿。しかし、その姿をアンが目にすることはない。男性を主人公にした伝記もの映画の大半が、傍にパートナーや家族がいて支えてくれるというケア付きのラストが用意されがちであることを考えると、本作のラストは画期的だったと思う。或いは、フィクションだからできたことか。
 男は虚勢を張っていても結局は弱いのだ…という言葉が、様々な問題性を持つ男性性(トクシック・マスキュリニティ)の擁護にしかなっていない状況に憤慨する観客にとって、本作はなかなかのラストだ。あの放り出し方は、マーガレット・サッチャーの映画がいかにマーガレットに優しく作られていたかと思わせてくれる。しかし最期には、全ての人があのように放り出される。最後のカットは、アンソニーの見た混乱したピースの答え合わせなどどうでもいいかのように、とても明るくすがすがしかった。
 認知症映画はホラー映画より怖い。

作品情報

『ファーザー』
原題:THE FATHER
監督:フロリアン・ゼレール
出演:アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、オリヴィア・ウィリアムズ
製作:フランス/イギリス
97分/2020年

パンフ情報

【奥付情報】
発行日:2021年5月14日
発行所:東宝株式会社映像事業部
発行者:大田圭二
印刷所:日商印刷株式会社
編 集:株式会社東宝ステラ
デザイン:大寿美トモエ
定 価:880円

関連パンフ情報

『アリスのままで』

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

Share!SNSでシェア

一覧にもどる