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【PATUREVIEW】Not Confusion But Fusion『エイブのキッチンストーリー』

文=屋代忠重

料理は科学だ。料理は科学実験そのものだ。

調理は化学反応を起こすことであるし、レシピに則って行えば、誰でも同じ結果が得られる。そして事前の段取りと、調理の手際が成否を分けるのも、科学実験のそれである。あんなに学校で理科の実験が好きだった男子達が何故、大人になると料理をしなくなるのか?私は料理を始めた当初、そんなことを考えた。そして、最近になって似たことを言う少年に出会った。それが今回紹介する「エイブのキッチンストーリー」の主役”エイブ”である。エイブは言った。「料理は化学だよ。」
エイブラハム、アブラハム、イブラヒム、彼は色んな名前で呼ばれるが、自身は総じてエイブと呼んで欲しい。それは彼がユダヤ人とパレスチナ人のミックスで、ブルックリン生まれ(それとグリフィンドール)の12歳という複雑な背景を持っているからである。
しかし彼は自分の出自よりも料理の事で頭が一杯だ。食べるのは勿論、デジタルネイティブ世代らしく、世界中の料理をググっては、自分でアレンジして作ってSNSに投稿する。

ラーメンタコスなどあらゆる料理を融合(フュージョン)させる感性は、移民たちが寄り合って、新しい価値を生み出してきたアメリカの歴史を象徴するようだ。しかし同時にアメリカの歴史のもう一つの顔、人種間の不和も味わうことになる。エイブの持つ二つのルーツ、ユダヤ系とパレスチナ系の祖父母たちは、事あるごとに諍いを起こし、エイブの誕生日会だろうがお構いなしに喧嘩をはじめ、果てにはエイブの将来をめぐって両親も対立してしまう。

この映画はイスラエルとパレスチナの対立を、流血描写なしで描いているが、そのぶん別の形で少年エイブに酷な現実を突きつける。この対立の描写が実に上手くできており、祖父母の対立を単純なユダヤとアラブの諍いではなく、彼らにシオニズムの肯定者と、それによって国を追われ命からがらアメリカに逃れた者という踏み込んだ設定を持たせた。しかも誰よりもエイブの理解者でもあったイスラエル系の祖母は既に故人で、筋金入りのシオニストである祖父ベンジャミンの歯止めが利かないのも事態を悪くさせている。イスラエルの占領政策や、シオニズムの持つ暴力性に反対するユダヤ系も世界中に多数いるが、ホロコーストの記憶が未だ残るベンジャミンには、ユダヤ人の悲願である祖国の獲得はきっと眩しく映ったのだろう。それだけに中東戦争で難民となってアメリカに行きついた、パレスチナ系の祖父母の憤りも理解できる。

エイブが苦しまない様、無宗教を貫き飲酒や豚食をするパレスチナ系の父アミールの考えも、大人になったエイブが好きな道を選べるようあらゆる選択肢を残すべきと考える母レベッカの思いも理解できる。

エイブはユダヤもムスリムも尊重したいし、両方でありたいと望むが周囲がそうはさせてくれない。あらゆる選択肢の中からどれか一つを選ぶのか、どれも選ばず無宗教となるかという選択はエイブからすれば、どちらもナンセンスなのである。それだけにエイブが出会うチコのチームは、彼にとって理想郷に思えただろう。そこでは様々な国からの移民が集まり、世界中の料理がミックスされる。エイブもチコに頼み込んで、チームに参加させてもらえる事になるが、最初は皿洗いはゴミ出しからのスタートだ。映画はエイブを料理が好きだが、技術はまだまだ未熟な少年にすることで、チコとの関係性の発展を丁寧に、そして誠実に描いている。チコも未成年を働かせるリスクを承知でエイブを受け入れ、彼のマスターとして毅然と接する。エイブの成長は著しく、遂に賄いまで任せられるようになる。自信をつけたエイブは、ユダヤとムスリムのフュージョン料理を振舞うことで家族たちの和解を目論み、食事中の音楽から内装、席次、全てにこだわりをみせる程の並々ならぬヤル気に満ちている。これはひょっとすると…と観ているこちらも、和解への淡い期待を抱く。しかし、少年の料理で解決するほど、やさしくない現実が彼を打ちのめす。長い時間かけてお互いに張ってしまった対立の根は深く、会食中も些細なきっかけから喧々諤々の大喧嘩に発展してまう。『美味しんぼ』の様に美味しいごはんで万事解決とはいかない…。

傷ついたエイブは家族の争いをよそに、家を飛び出してしまう。家族たちがエイブの家出に気付くころには時すでに遅し。彼の行方はわからない。ここから一気に和解へと収束していく過程は、正直いってベタそのものである。しかし、祖父母たちが結束するのに足る理由があった。ある日突然、家族がいなくなってしまう悲しみを、どちらも痛いほど知っていることだ。これ以上の対立で、お互いの家族を失いたくないという気持ちが、あれだけバラバラだった彼らを一つにまとめ上げる。そして憔悴しきった彼らはエイブが作った料理を食べながら、互いに励まし合う事で、両者に渦巻いていた恩讐を越えることが出来たのだった。

絵本作家のやなせたかしは言っていた。「正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。(中略)アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。」

ユダヤ教の成人式の時、ベンジャミンはエイブに「今の世界情勢を見ていると、何が正しいのか分からなくなった。しかしエイブなら平和を見いだせるかもしれない。」と語っていた。ひょっとしたら、これまでの彼らの諍いは、自分が持つ不確かな正義に対する後ろめたさからくる自己弁護だったのかもしれない。だからシオニストの彼にも自分の正義に迷いがあった。そこにエイブが絶対的な正しさを見せてくれたのだ。相互理解とは簡単に言うが、それは問題や相手に対して立ち向かう事でもある。決して楽ではないし、時には自分の正義に目が曇り、エイブの様に大きな痛みを与えてしまう事もある。しかし、チコは優しく諭すのだった。「フュージョンとは調和だ」「問題から逃ちゃダメだ。立ち向かえ。自分らしくいろ。」そしてその言葉は我々にも向けられている。お互いを知る為に、目を背けず、耳をふさがず、コミュニケーションだと。立場を超えた共通する正義を実践する事。今まで、そしてこれからも、そうやって世界が少しずつ前に進んでいったように。

作品情報

『エイブのキッチンストーリー』
原題:Abe
監督:フェルナンド・グロスタイン・アンドラーヂ
脚本:ラミース・イサック/ジェイコブ・カデル
出演:ノア・シュナップ/セウ・ジョルジ/ダグマーラ・ドミンスクほか
制作:2019年 アメリカ/ブラジル 85分

【奥付情報】
発行日:2020年11月20日発行
発行承認:株式会社ポニーキャニオン
編集発行:松竹株式会社 事業推進部
編集:宮部さくら(松竹)
デザイン・イラスト:小川紗知
印刷:成旺印刷株式会社
定価:850円(税込)

関連パンフ奥付情報

『テルアビブ・オン・ファイア』
発行日:2019年11月22日発行
発行:アットエンタテインメント
デザイン:restafilms
定価:600円(税込)

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