映画パンフは宇宙だ!

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無自覚な特権の私 ~PATU講座第3回目「人権啓発講座」~

文=やしろ

初めまして。やしろと申します。
「映画パンフは宇宙だ!」に第2期メンバーとして参加しております。

当然ながら僕は映画を観るのが大好きです。特に洋画を観る時は、その国の社会背景を知って、物語をより深く理解するのが好きです。特に人権、差別問題に関して、映画で学ぶことも少なくありません。
最近の作品で言えば「ムーンライト」で差別される黒人社会にもゲイに対する強い差別が存在している事。後述するwhite saviorで批判された「グリーンブック」だって黒人社会にとってフライドチキンを勧める事は差別的要素を持ってしまうという事(netflixで配信されている「アグリーデリシャス」の第6回が理解を助けてくれます)
※余談ですが、昭和の昔、たこ八郎に東大生の血を輸血して知能指数が上がるか?という、恐ろしい企画がバラエティで行われていましたが、数十年後に似た形のものが「ゲット・アウト」で蘇るとは思いもしなかったです。勿論、ゴリッゴリの差別、人権侵害です。閑話休題。

しかしここから得られるのは「ある差別が存在する」「観ている我々にもバイアスがかかっており、それぞれをステレオタイプにはめ込もうとする」事であって、なぜ差別が起きるのか?なぜ昨今のBLM運動で黒人の生命の安全が叫ばれているのか?根本的な原因というのは案外曖昧だったりします。
活動の一環として同人とは言え書籍の出版をする上で、この曖昧な部分を理解しないと、思わぬ問題に発展しかねないし、それは全く本意ではありません。

また実際に認識が及ばなかった為に、ご迷惑をおかけしてしまった経緯もありました。
詳しくはこちらをご覧ください。
その為に外部から講師の方をお招きして、問題の理解を深めるのが今回のPATU講座第3回目です。

講師に高内悠貴さん(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校歴史学部博士課程)をお招きして、イメージを生産する側の役割(人種と表現ほか)をテーマにZOOMによる講義を受けました。

まずエンターテインメントにおいて、昨今人種に関して、問題があると批判されることの多い表現の提示がありました。

①ポップカルチャーにおける人種とイメージを巡る問題
・white savior(白人救済者→弱者を守る英雄としての白人像)
・white wash(白人が主人公じゃないと利益が出ないという映画会社の論理)
・文化の盗用(他民族の文化を利用して利益を得る)
・black face(非黒人の役者が、カリカチュア=戯画化された黒人を演じるのに用いる劇場的なメークアップ)

こうしたバイアスがステレオタイプを産み、次に解説された構造的人種主義を見えにくくしてしまっています。
※最近ではメキシコや途上国のシーンでは黄色を強くする「イエローフィルター」もバイアスをかけるのに一役買ってしまってる傾向があるように感じます。

②構造的人種主義(systemic racism)
「人種差別は、歴史的に作り上げられた社会的構造が生み出す」という考え方です。

《構造的人種主義に見られるサイクル》
警察、司法の介入

まともな社会福祉が受けられない

まともな教育が受けられない

不安定な経済基盤

住環境の悪化

警察、司法の介入

この構造が白人中心でしっかり噛み合ってしまい、差別が社会的構造として出来上がってしまっているのです。
更にこの構造が①で植えつけられたバイアスによるステレオタイプで補強されてしまい、白人に「私たちは差別に理解がある。差別と戦う白人もいるし、異文化だってお洒落じゃん。だから私たちは差別とは関わりがないし、むしろこのスパイラルに陥るのは、黒人が怠惰で努力不足だからじゃないか?」という論理を与えてしまっているのです。これは日本でも貧困を自己責任、自助努力の不足へと追いやってしまう風潮があるなと感じていて、決して他人事ではないなと思いました。

こうした構造に気づくためには社会の多数派が「自分たちに与えられている特権に気づき、それと向き合うことが大事である」と仰ってました。では特権とは何か?それは「普段生活する上で、問題化していない事。それは既に自分に与えられた特権である。」
そして差別は構造である事に気づくと「この特権を与えられた側こそが、主体的に構造を変えていくべきであると分かる。」
勿論、日本にもこれは当てはまる事だと思います。特権を持つといっても、貴族階級的な事ではないです。誰からも暴力を振るわれない、スロープなしで段差を昇降できる、医大で入試の点数を引かれない等、様々な属性の人々が様々な特権を無自覚に与えられているという意識をいかに持つことができるか?という事です。
とても極端な例ですが、僕は視力が悪いです。もしこの世にメガネがなければ、僕は日常生活に支障をきたし、視覚障害者として扱われるでしょうし、裸眼視力がいい人は問題なく暮らせ、それだけで特権があると言えます。そう言った特権を持つ者達の想像力や気づきが、構造的差別を変えていく事に繋がるのだと思いました。

今回の講義で、今までニュースの一つとしか認識していなかった出来事が、構造的差別に対する変革のそれぞれのアプローチなのだと気づきました。
BLMの中で起きた、州警察の解体〜再編成は警察官の有色人種への暴力が、警察の組織ぐるみの工作で不起訴になる構造を正す動きだったという事。
また、「クレイジー・リッチ!」や「サーチ」などアジア人が主人公の映画の登場で、白人が主役じゃなくてもヒットするという事が証明された様に思います。
オバマケアと呼ばれる医療保険制度も、多くの貧困層が適正な福祉を受けられる為のものだと理解しています。(これは今後の大統領選次第では予断を許さないですが)
そして映画「ブックスマート」は、無自覚にバイアスに支配された、観客のパターナリズムを打ち破りました。

それぞれの知識が点から線、そして面になった瞬間でした。

差別の大半は凡庸な悪に則った善人によって、無自覚に行われるというのは僕の持論ですが、今回の講義を通して、そういう自分が無自覚に持つ特権で無自覚に誰かを差別の輪に放り込んでしまってるかもしれないという意識を持つ事の重要性を再認識しました。

また、今後の活動にあたって、大変重要な知見を得ることが出来ました。
高内悠貴さんに厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

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